● 16日、ベトナムの首都ハノイで、中越戦争35年を機にデモ行進する市民ら(共同)
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2014/02/16 17:30 【共同通信】
http://www.47news.jp/CN/201402/CN2014021601001952.html
中越戦争開始35年でデモ ハノイで領有権めぐり抗議
【ハノイ共同】1979年の中越戦争の開戦から17日で35年となるのを機に、ベトナムの首都ハノイで16日、犠牲者らを追悼するとともに、南シナ海の南沙(英語名スプラトリー)、西沙(同パラセル)両諸島の領有権をめぐって中国に抗議するデモが行われ、市民ら約100人が参加した。
共産党一党支配のベトナムでは政治的デモは厳しく規制されているが、警察当局は今回、強制排除はせず事実上容認した。
反中デモは西沙諸島で中国と南ベトナムが交戦し、中国による全面的実効支配が始まってから40年に当たる先月19日にも行われたが、警察はすぐに解散させていた。
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日本経済新聞 2014/2/16 19:47
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM16003_W4A210C1FF8000/
ベトナムで反中デモ 政府容認、中越戦争35周年
●中越戦争から35年にあたり中国に抗議するデモ参加者たち(16日、ハノイ市)
反中デモは1月に続いて、今年2回目。
100人強が市内を行進したが、警察当局は排除せず、デモを容認した。
17日は1979年に中国がベトナム北部に侵攻した「中越戦争」から35年にあたる。
ネット上ではデモ参加の呼びかけが出回っていた。
共産党一党支配のベトナムは、デモ活動を厳しく制限している。
だが、中国が南シナ海で外国漁船への操業規制を設けるなど高圧的な態度を強めるなか、ベトナム当局は反中デモを容認して中国をけん制したもよう。
デモ隊は約1時間半かけてハノイ市内を行進した。
参加者は「79年(の中国侵攻)を忘れない」と書いた赤い鉢巻きをして手に花束を持ち、中国への抗議と中越戦争の犠牲者への追悼の意を示した。
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日本経済新聞 2014/1/19 22:22
ベトナム首都で7カ月ぶり反中デモ 西沙諸島交戦から40年
【ハノイ=共同】ベトナムの首都ハノイの中心部で19日、南シナ海の領有権問題をめぐり中国に抗議するデモが行われた。
反中デモは昨年6月2日以来、約7カ月ぶり。約100人が参加したが、警察当局が30分程度で解散させた。
ベトナムは中国と南沙(英語名スプラトリー)、西沙(同パラセル)両諸島の領有権を争う。
西沙諸島で1974年1月に中国と南ベトナムが交戦し、中国が西沙全域を実効支配するようになってから、19日はちょうど40年にあたり、インターネット上で抗議行動が呼び掛けられていた。
デモには知識人や退役軍人らも参加。
花束を手に74年の戦闘で落命した兵士らを追悼し「ホアンサ(西沙)諸島はベトナムのものだ」などと気勢を上げた。
警察当局は約300人の警官らを配置、デモをその場で解散させた。
ハノイと連動する形で、東京でも19日、在日ベトナム人ら約100人が在日中国大使館周辺をデモ行進した。
西沙諸島海域では近年、中国船によるベトナム漁船の拿捕(だほ)などが多発。
ベトナム外務省報道官は今月、中国が南シナ海での外国漁船に対する操業規制を強化したことに対し、主権侵害と強く批判した。
ただベトナムでは共産党独裁体制の下、政治的デモは通常厳しく規制されている。
ハノイでは2011年6~8月に反中デモがほぼ毎週日曜日に発生、12年7~8月と12月にも同様のデモが行われた。
警察は当初はデモ行進を黙認したが、後に封じ込めに転じ、昨年6月も強制排除した。
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サーチナニュース 2014-02-17 13:57
http://news.searchina.net/id/1524258
ベトナムで中越戦争35周年の反中デモ、逮捕者はなし
ベトナムの首都ハノイで16日、翌17日は1979年に中越戦争が勃発して35周年として、デモが発生した。
当局側による間接的な妨害と見られる活動はあったが、デモは最後まで続けられた。
警察や反対派との衝突もなく、逮捕者も出なかった。
中国新聞社などが報じた。
デモとして、規模は大きくなかった。
16日午前中にハノイ市中心部に約70人が集合し、歩き始めた。
参加者は大声で、「反中シュプレヒコール」を行った。
また、携帯機器を用いてデモの様子をインターネットで紹介する人も目立った。
新たにデモに加わる人もいて、人数は100人程度に増えた。
デモはベトナム李朝の初代皇帝で、建国の祖ともされる李太祖(李公蘊、974-1028年)の銅像まで歩き、銅像に献花して簡潔に意向を表明して解散した。
ただし、李太祖の像がある李太祖公園では早朝から数十人が大音量で音楽をかけて、ダンスをするなどしていた。
「政府のさしがねによる妨害活動」との見方をする、デモ参加者がいた。
ただし、双方の衝突は発生せず、警察による逮捕者も出なかった。
アモイ大学南洋研究院の荘国土院長は、
「ベトナムでは改革により多元化社会の段階に到達し、民衆による集会やデモが認められた。
現行法により政府は強制的な干渉ができない。
ただし、別の方法で(デモなどを)抑制することはある」
と述べた。
荘院長は
「一部の人は、国際問題を借りて、国内問題での政府に対する鬱憤(うっぷん)を晴らす。
政府としても、全くの放任はできないだろう」
との考えを示した。
中越戦争の大きな原因になったのがカンボジア問題だった。
同国で1975年に発足したポル・ポト政権(クメール・ルージュ)は極端な革命思想を唱え、住民の大量虐殺をともなう恐怖政治を行った。
中国はポル・ポト政権を支援した。
一方で、ベトナム戦争を終え成立した統一ベトナムとカンボジアのポル・ポト政権との間の対立が激化した。
当時は中国とソ連が厳しく対立していたが、ベトナムはソ連の側に立った。
ベトナムは、カンボジアから亡命していた元クメール・ルージュの軍司令官、ヘン・サムリンを支援するという形でカンボジアに侵攻。
ポル・ポト派は密林に逃れた。
中国はベトナム戦争時に北ベトナムを支援しており、北側による統一後にベトナムがカンボジアの親中政権に攻め込んだことを裏切り行為とみなした。
そのため、中国は「懲罰」と称して、1979年2月17日にベトナムに侵攻した。
ベトナム軍は主力がカンボジアに出払っていたために極めて不利だったが、頑強な陣地なども構築しており、中国軍に打撃を与えつつ、徐々に後退する戦法をとった。
ベトナム軍にはベトナム戦争時から保有していた優秀な武器もあり、実戦経験も豊富だった。
「敵に打撃を与えつつ後退する」戦法は、中国共産軍が日本軍などに対して用いたゲリラ戦法を、自国の風土に合うように進化させたものと考えてよい。
一方の中国軍は、国共内戦や朝鮮戦争で用いた、自軍の兵員の大損害を許容する「人海戦術」を採用した。
貴重な戦車を守るため、先行させた歩兵部隊に地雷を踏ませてまず爆発させてから戦車を進めるという戦法も採用したとされる。
中国側はベトナム北部の要所であるランソンなどの占領に成功したが、カンボジア方面から引き返したベトナム軍主力が集結を始めたので、被害の増大と占領地が奪回されることを予想して、撤退を始めた。
ベトナム軍は追撃を開始したが、中国軍は焦土作戦を繰り返して開戦後約1カ月で自国にたどりついた。
その後、中国政府は国内外に向けて戦争勝利を宣言した。
ただし、国際的には同戦争を「ベトナムが大きな犠牲を出しつつも勝利」とする見方が強い。
中国側は同戦争を「対越自衛反撃戦」と呼んでいる。
その後、両国は対立を続けたが、ソ連が崩壊し、両国とも経済発展により政権維持を図るようになったため、1990年代には関係が正常化した。
2002年に中国の江沢民国家主席(当時)がベトナムを訪問した際、ベトナム側は中越戦争について謝罪を要求した。
江主席は「両国関係は未来志向であるべきだ」などとして拒否したとされる。
中国のインターネットでは、多くのユーザーがベトナムに対する「悪感情」を爆発させることがある。
多くは
★.「ベトナム戦争であれだけ支援したのに裏切った」、
★.「小国のくせに」、
★.「本来は中国の一部」
といった書き込みだ。
ベトナム政府は中国との不要な対立を避けようとする傾向が強い。
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ベトナム経済は中国に依存している部分が大きい。
その比率は韓国の半分ほどで、インドネシアと同等。
フィリピンは中国に依存していないから反中を貫ける。
ベトナムはそうはいかない。
中国は歴史問題とやらの日本非難の要請をベトナムに働きかけているのもその為である。
とはいえ、ベトナムとしては中国の「パシリ」に使われるのはシャクにさわる。
微妙なカジ取りといったところである。
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レコードチャイナ 配信日時:2014年2月17日 13時46分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83512&type=0
ベトナム・ハノイで中越戦争35年デモ、警察当局は黙認―米メディア
2014年2月16日、ベトナムのハノイで、中越戦争開戦35周年に合わせたデモが行われた。約100人の参加者は、手に花を持ち、「人民は永遠に忘れない」などと書かれた鉢巻きを付け、市内を行進した。
米ラジオ局ボイス・オブ・アメリカ(VOA)中国語サイトが伝えた。
ベトナムは中国と密接な経済関係にあることから、中国関連の報道が規制されている。
デモも原則禁止で、以前はデモ隊幹部数人が逮捕されたこともあったが、警察当局は今回、黙認した。
中国人民解放軍は1979年2月17日、中国と同盟関係にあったカンボジアのポル・ポト政権がベトナムの侵攻で崩壊したため、ベトナム北部に侵攻した。
両国の死者は2万1000人に上るとする説があるが、両国政府はともに数字を公表していない。
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レコードチャイナ 配信日時:2014年2月22日 8時40分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=83663&type=0
中越戦争、熱いメディアと冷淡な教科書=ベトナムの「歴史教科書問題」
●2014年2月17日、1979年に中越戦争が勃発から35周年の記念日です。中越戦争ですが、日本ではトウ小平がベトナムを「懲罰する」と称して始めた戦争だと知られています。
2014年2月17日、1979年に中越戦争が勃発から35周年の記念日です。
中越戦争ですが、日本ではトウ小平がベトナムを「懲罰する」と称して始めた戦争だと知られています。
戦争は約1カ月と限定的ではありましたが、戦後、ベトナム北部各省は中国に対する「国防」が最優先事項となり、経済発展に必要な投資が滞るなど大きな影響がありました。
フランスやアメリカと戦ったベトナム戦争とは違う形で尾を引く戦いであり、現在に至ってもベトナム人の心に大きな影を落としています。
35周年の記念日を迎えた今、ベトナムでこの戦争がどう語られているか、そして何が語られていないかについて取り上げます。
■叫ぶメディア:政府の代わりに中越戦争の意義訴える
「中国に対して警戒心たっぷり」「中国嫌い」などと良く言われるベトナム。
中国の「侵略」を「撃退」したこういった記念日はさぞ広く祝われているのだろうと思われるかもしれませんが、ことはそう簡単でもありません。
基本的に中越戦争はセンシティブな問題として扱われています。
16日に反中デモがあったというニュースがありましたが、あくまで小規模な範囲の中で許されているものです。
しかし、ベトナムのメディアはかなり飛ばしています。
比較的ストレートな物言いで知られるTuoiTre紙の16日紙面には、戦火を逃げる幼い姉妹の写真を大きく掲載。
同戦争の後世への伝え方、教科書での扱いに関する歴史家へのインタビュー記事を載せました。
記念日当日の17日の紙面はなぜか大人しかったのですが、一方でネットメディアは今日もガチで中越戦争を扱う記事が多数。
防衛戦の意義を訴えたり、参加した人々のインタビューを掲載したり。
公式行事で顕彰しない政府に対する不満が透けてみえるような報道っぷりです。
ベトナムエクスプレスなどは中国軍が侵入したベトナム北部国境6箇所のポイントを地図上に表し、各ポイントでの戦況を解説するページまで作っています。
ビジュアル的にもかなりのわかり易さです。
■黙る教科書:ベトナムの歴史教科書は中越戦争をどう語っているか?
メディアとは対照的なのが学校の歴史教科書。
政府公式見解という意味合いもあるため大変微妙です。
本屋に行ってベトナムの歴史教科書をチェックしてみました。
現代史まできちんと網羅しているのは「12年生」、つまり高校3年生の教科書ですが、中越戦争に関してはわずか1パラグラフだけで、その戦後への影響に比べると記述は非常に少ないものです。
中越戦争のみならず、ベトナム戦争戦勝後の記述は現代における国家建設、経済発展がほとんどで、外交マターはほとんど触れられていないのです。
メディアがこれほど取り上げているにもかかわらず、中越戦争は公式には学校ではほとんど扱われない話なのです。
同じ棚に12年生用歴史教科書の「詳細版」がありました。
普通の教科書がいわゆる「必修」という位置づけに対し、詳細版はより深く知りたい学生向けの自習用「参考書」という位置づけです。
以下のように中越戦争についての記述がありました。
*****
「カンボジアにおけるポルポト政権の反ベトナム政策に対し、一部の中国指導者は支持を示した。
彼らは国境地域を煽動する、いわゆる「華僑迫害」(ベトナム戦争後、中越関係悪化に伴い、ベトナム政府が国内華人に対し締め付けを強めた)問題の濫用、支援の停止、(中国人)専門家の帰国など、ベトナムを困難に陥れ両国の友好関係に傷をつけるような行動を取った。
さらに深刻なのは、1979年2月17日、中国は32師団を投入し、ベトナム北部国境をモンカイからフォントーまで1000kmを超える国境線で攻撃を仕掛けてきた。
祖国を守るため、我が軍隊、特に国境6省の辺境防衛軍は勇敢に戦った。
同年3月18日までに中国はその軍隊を引き上げた。」
*****
■戦争の事実を隠さないで欲しい…歴史学者
歴史学者のDuong Trung QuocはVNexpressのインタビューに次のように答えています。
中越戦争は
★.「侵略戦争に抵抗した歴史であり誇り」で、
★.「抗仏、抗米のベトナム戦争を展示したホーチミン市の戦争証跡博物館は国内外の観光客を呼んでいるのに、なぜ1979年の中国との戦争は例外になるのか?」
と疑念を呈しました。
そして
★.「歴史学者は教科書が戦争の歴史事実を隠さないようにしてほしいと願っているし、それと同時に民族間、国家間の敵対心をやたらに刺激して欲しくないとも思っている」
と語っています。
上記の必修教科書と「参考版」教科書じゃないですが、
ベトナム政府の方針も有り「もっと書きたいが書けない」という微妙なバランス
が読み取れるようで、
また「どう載せていいか結論がでない」
という苦悩も垣間見れて、非常に考えさせられます。
(ちなみにですが、彼の名前の「Trung Quoc」は正にベトナム語で「中国」という意味。恐らく60歳前後の彼が生まれた頃には、子供に「中国」と名を付けられるほど、親密な関係の頃もあったわけですね。)
■中国からの圧力なのか、愛国主義コントロールの問題か?
この戦争をどう扱うか、特に歴史教科書でどう扱うかは、当然中国との外交問題にも配慮しているでしょう。
35周年に関しても「中国が記念行事を行わないようベトナムに圧力をかけている」という噂も流れました。
BBC Vietnameseではオレゴン大学にいるベトナム人研究者の意見として
「圧力の有無はわからないが、ベトナム政府が中国に配慮して、或いは自国の中国に対する民族主義が高まり過ぎないように抑えているのは確か」
と語っています。
中国からのプレッシャーというのは想像されるところですが、民族主義の高まりが制御できなくなるのではとの懸念は興味深い。
愛国主義を認めつつも、過剰な高まりを警戒して時に反日デモを抑えにかかる中国政府を想起させます。
周りのベトナム人に聞くと、皆が知っているこの中国との戦いの歴史。
結局教科書ではほとんど触れられていなくても、先生たちが自らの体験談などで教えてくれたと言います。
ましてや、近年の中越間の領土問題などをきっかけに、ネットを少し紐解けば当然この時期の戦争にも行き当たり、その事実を隠すことはできないはず。
それでも教科書にはまだ多くを書けないという状況には、
隣国間のパワーバランス、そして今もリアルに存在する中国との領土問題など、
この歴史上の事実と現実とのあまりの距離の近さが強く関係しているのでしょう。
昨年末には西沙・南沙諸島の問題は教科書で取り上げるべきとズン首相が指示したとの報道もありましたが、中越戦争に関しては明言されていません。
この戦争がベトナム歴史教科書で詳述される日はいつになるのでしょうか。
◆筆者プロフィール:いまじゅん
ハノイ在住のベトナムウォッチャー。ブログ「ハノイで考えたこと」作者。中国在住も長かったので、ベトナムから見た中国、中国とベトナム比較といった視点にも注目。個人的には湘南ベルマーレの熱烈サポーターということから、サブトピックとしてはアジア・ベトナムサッカーにも関心大。
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【劣化する人心と国土】
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